アメリカ独立戦争によって失われた人命の総数は正確なところが分かっていない。当時の戦争の常として、病気による死者が戦闘による死者の数を上回っていた。歴史家のジョセフ・エリスは、ワシントンがその軍隊の兵士に天然痘の予防接種を受けさせたことは、その最も重大な決断の一つだったと示唆している[18]。
推計ではアメリカ大陸軍側の従軍中の死者は25,000名とされている。このうち8,000名が戦死で、残りの17,000名が戦病死であった。戦病死の中には捕虜として収容されている間に死んだ者8,000名が含まれていた。重傷を負った者、あるいは障害者となった者は8,500名から25,000名と推計されている。つまりアメリカ側の損失は高々50,000名ということになる[19]。
イギリス海軍には約171,000名の水夫が従軍したが、そのうち25ないし50%は強制徴募によるものだった。約1,240名が戦死し、18,500名が病気で死んだ。一番多い死因は壊血病であった。当時この病気を避けるための一番簡単な方法は、水夫にレモンジュースを与えることだった。約42,000名の水夫は脱走した[20]。
およそ1,200名のドイツ人傭兵が戦死し、6,354名は病死した。ドイツ人傭兵の残り16,000名はドイツに戻ったが、約5,500名は様々な理由でアメリカに残り、結果的にアメリカ市民となった。他の集団、つまりアメリカやカナダの王党派、イギリス正規陸軍、アメリカの先住民、フランスおよびスペイン軍、さらに市民の損失については信頼に足る統計データが無い。
財政的コスト
イギリスは約8,000万ポンドを費やし、最終的な国の負債は2億5千万ポンドとなった。このための利息返済だけでも年間950万ポンドとなった。フランスは13億リーブル(約5,600万ポンド)を消費した。フランスの国の負債は1億8,700万ポンドとなり、1780年時点の歳入の半分以上が負債の返済に消えていった。この負債による危機のために政府は大衆の承認もなく税率を上げることができなくなり、フランス革命の大きな要因となっていった[21]。アメリカ合衆国は連邦で3,700万ドル、各邦の合計で1億1,400万ドルを使った。これはフランスやオランダからの借金、国民からの借金、および紙幣の多額の発行で補われた。アメリカは1790年代までかかって最終的に負債を解決した[22]。
イギリスが敗れた要因
アメリカ独立戦争は、対立した両勢力が元々は同じ国民であったので、外国の地で戦われた内乱という見方もある。とは言っても、アメリカはフランスの援助が無ければ戦いとおすことができなかった戦争であり、イギリスは軍事力において相当に優勢であった。ただし、距離の問題がイギリスを苦しめた。援軍も物資も大西洋を越えて運ばねばならなかった。そのため、イギリスには港湾都市から一歩離れれば兵站の問題が常に付いて回ることなった。一方アメリカは地方に行けば兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。また、大西洋を越えるということは情報も2ヶ月やそこら遅れて伝わるということであり、アメリカにいるイギリス軍の将軍がロンドンからの指令を受け取るとき、軍事的な情勢が変わってしまっていることが多々あった[23]。
アメリカの反乱を抑えようとすると新たな問題を誘発した。植民地は広大な範囲に広がっており、戦争の前は一体ではなかったので、戦略的に重要な地点は一つではなかった。ヨーロッパでは首都を制圧することが戦争の終りを意味していたのに対し、アメリカでは、イギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占領したのにもかかわらず、戦争は終らせる事ができなかった。また、領土が広いということは、イギリス軍が力で制圧しようとしても広範囲を抑えるに足る兵力が必要となることを意味していた。ある地域を占領したとして、イギリス軍が占領のための兵を置いておかねば、革命軍がそこを再び支配してしまうことになった。占領を維持しようとすれば、次の作戦行動には移れないことを意味していた。イギリス軍は戦場でアメリカ軍を敲くには十分な兵力を保持していても、同時に占領を続けるには足りていなかった。この兵力の不足はフランスとスペインが参戦した後は特に重大な問題となる。何故ならば兵力を幾つかの戦線に分散させざるを得なかったからだった[24]。
イギリスは王党派との連携を保ちながら戦争を遂行するという困難さもあった。王党派の支持は植民地をイギリス帝国の中に留めておくという目的のために不可欠だったが、このために軍事的な制限も起こった。戦争の初期、ハウ兄弟は戦争を遂行しながら和平のための交渉も続けていたので、戦闘の際の効果を削いでいた可能性があった。また、イギリスは奴隷やアメリカ先住民族を戦争に駆り立てたが、これは王党派の存在を疎遠にしたし、賛否両論のあったドイツ人傭兵の採用よりもさらにその傾向を強めたと考えられる。王党派を繋ぎとめるために、イギリス軍はアイルランドやスコットランドを抑え込むために用いた過酷な手段を使えなかった。これらの制限を付けていてそれでも、潜在的に中立であった植民地の人間が革命派の中に入っていくことになった。これらの要因が組み合わされてアメリカにおけるイギリスの支配は終り、革命派は自らの国、アメリカ合衆国を打ち立てた[25]。
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また、武器の性能にも決定的な違いがあった。アメリカ側の銃は当時バッファローに遭遇する危険性があり、銃身内部に螺旋の溝をいれたことでより射程距離、命中精度、破壊力の高い銃を実現することに成功していたが、イギリス側は旧式の銃であり、物量に勝るものの十分に近づかなくてはならなかったため大きな犠牲を出すこととなった。
独立宣言署名州
ニューハンプシャー州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネティカット州(以上、ニューイングランド)、ニューヨーク州、ペンシルヴァニア州、デラウェア州、メリーランド州、ヴァージニア州、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、ジョージア州、ニュージャージー州の13州。
ニューイングランド6州のうち、バーモント州とメイン州はこれに含まれていない。バーモント州がイギリスから独立したのは1777年であったが、ニューヨーク州との領土問題を抱えており、連邦への加盟は1791年と遅れた。バーモント州は14番目の州である。また、メイン州は独立宣言の時点ではマサチューセッツ州の飛び地で独立した州ではなかった。同様に、15番目の州であるケンタッキー州やウェストバージニア州はヴァージニア州の一部であった。
ヨーロッパへの影響
フランスについてはアメリカ独立戦争におけるフランスを参照。
勝利を喜んだのはアメリカだけではなくフランス王国もそうだった。熱烈な青年貴族ラファイエットが参戦したフランスブルボン朝においては、勝利の後しばらく貴婦人の間に頭に船の模型を乗せた一風変わった髪形が流行した。だが、アメリカ独立戦争における対外援助は既に大きく傾きかけていたフランスの財政を破綻させ、フランス革命をおこす要因となった。
またアメリカ独立宣言はフランス革命に影響を与え、ラファイエットら起草のフランス人権宣言となって結実した。また独立戦争に参加したポーランド人のタデウシュ・コシチュシュコは、故国ポーランドにおけるポーランド分割に対抗して反乱を起こした。
なお、アメリカ合衆国の独立を最初に承認したのは、スウェーデンであった。1783年には、友好関係も結んだ。